足踏みミシン

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概要[編集]

足踏みミシン

 ミシンを英語で書くと[Sewing Machine/ソーイングマシン]となる。直訳すると「縫う機械」となる。ドイツ語では機械のことを、「menschen」(メンチェン)と言います。
ミシンは機械であるので、[Machine](マシン)の分類の1つになる。、外人が[Machine](マシン)と発音すると日本人には、ミシンと聞こえる為、いつしか、ミシンになったというのが定説。

  ミシンが日本へ伝来した説には多くの説がある。有力な説としては、1854年に、アメリカのペルー提督が、第十三代将軍家定夫人の敬子(すみこ)に献上したのが最初と言われている。実際には、将軍家家定自身への献上品だったと推測されている。
  1853年(嘉永6年)は、黒船が、日本へ初めて訪れた年で、アメリカ、ペリー提督率いる東インド艦隊の軍艦4隻が、江戸湾浦賀沖に現われ、時の江戸幕府に開港を要求した。
  その翌年、1854年(安政元年)、横浜に再来航したペリー艦隊は、第13代将軍「徳川家定」へ数々の珍しい献上品を贈った。その献上品の中にシウイングマシネ(sewing mashine の和式発音)があった。
  日本にミシンが初めて伝来したのは、この1854年(安政元年)とされている。
ミシンを初めて使用したのは、家定の御台様「天璋院敬子(てんしょういんすみこ)」(通称:篤姫)と言われている。但し、伝来したのと、初めて使用したのは、少しその意味に違いがあり、資料によっては、家定の御台様「天璋院敬子(てんしょういんすみこ)」宛てに贈られたとされる記もあり、時代背景からも前者(徳川家定に贈られた)が、本当のところではないか。

  1860年、遣米使節団に同行した通訳:中浜万次郎(通称:ジョン万次郎)が、写真機と手回しミシン|手廻しミシンを持ち帰っている。
また、遣米使節団のの様子を描いた当時の「米行日記」にも、アメリカで観たミシンの事柄が、刻明に記されている。

ミシンの種類[編集]

  • 人力ミシン
1960年代までは人力のミシンが主流であった。足踏み式手廻しミシンなどがある。
足踏み式ミシンとは、人の足先の上下反復運動を回転運動へと変換する仕組みのもので、踏板・ピットマン棒・ピットマンクランクなどの機構を持つミシンである。(フットスイッチでオン・オフする電動ミシンではない。)
家庭の部屋に置ける大きさで、現代のものは通常、電気を動力源としている。古くは足踏み式手廻しミシンのものが多く使われ、直線縫いしか出来なかった。

電動式ミシンの登場によって次第に使われなくなっていった。が、一旦足踏み式の熟練者になった者の中には、あえて電動ミシンを使わず、足踏みミシンを好んで使う人もいる。熟練者だと、足先の微妙な感覚などでクランクの細かい角度、クランクを停止させる位置まで自分の身体の一部のようにコントロールでき、針を望んだ位置でピタリと停められ、また足だけで逆回転に入れることもできるからである。
とは言え、それは熟練者の場合であって、慣れるまでが かなり大変で、初心者・中級者には電動ミシンのほうが簡単なので先進国ではほとんど使用されなくなった。だが、足踏みミシンは電気が不要なことが開発途上国|発展途上国内の電力供給のない地域での使用に有効なことが再評価され、非政府組織|NGOの努力などにより収集され、発展途上国の人へと無償で譲渡されることが行われている。

※以下から引用

出典:横山工業ミシン(株)-ミシンの歴史
出典:ミシン-WikiPedia



関連項目[編集]